第20回東京矢の原会・ドキュメント

 今回は、NHK総合テレビで毎週火曜日の9時台(再放送は木曜日の深夜)に放送されている「プロジェクトX(エックス)-挑戦者たち-」の語り口を真似てみました。この番組は、様々な分野で困難に立ち向かった名も無き人々にスポットライトをあてることで、いま中堅サラリーマンなどの間では静かなブームになっているそうですが、ナレーションを担当する田口トモロヲの淡々とした語り口を真似て遊ぶのも一部で流行っているそうです(?)。

 さあ、「プロジェクトX」をご覧になったことのある方は、中島みゆきのテーマ音楽を思い浮かべながら、田口トモロヲの声でお読みください。(だらだらと長くなりますがご容赦ください。また、文中敬称略で失礼します。)

※2024年4月に復活のNHKテレビ「新・プロジェクトX」の公式ページはこちら


週間天気予報でその日はずっと雨だった。

「台風が来ることを思えば、まだいいか・・」 

梅雨とは思えない連日猛暑の名古屋で、最後の準備を進めていたN(13期)はそうつぶやいた。

 


しかしNには気がかりふたつがあった。

 

20回目を迎える今年の東京矢の原会は、開催日が近づくにつれ、出席予定者の数が急速に増えていった。最終的に出席予定との返事があったのは122人。松江からのゲストを含めると130人近い人数であった。


一方、会場は昨年好評だった「香港ガーデン」。着席して食事できるのは100人あまりが限度だった。ただ、店側も何とかすると言っているので大丈夫だという会場担当幹事M(29期)からのメールだけが頼りだった。

 


もう一つは、新しい新しいアトラクションの「マイCMタイム」だった。

 

それは、松江南高40年の歴史を振り返るスライド・ショー「セピア色の写真から」に引き続いて行う予定の自己PRの場だった。同窓会だからといって旧交を温めあうだけでなく、現在の自分を積極的にPRし、同窓生との新しい関係を築くチャンスにしてもいいのではないか。一人の幹事のつぶやきがきっかけだった。

 

果たして名乗りをあげるものがいるだろうか。

 

 

 


そして運命の7月7日はやってきた。

 

天気は数日前の予報に反して朝から晴れていた。

 

同級生の妻を急き立て1時過ぎには店についたNだったが、会場を見て愕然とした。

 

だめだ、席が100しかない。 

 


そうこうしている間にも、続々と出席者が集まってきた。

 

呆然と立ち尽くすNの横で、最近名札などの管理を一手に引き受けているH(15期)とNの妻は何事もないようにてきぱきと受付をはじめていた。Nは心の中で二人の女性に頭を下げた。

 


100人を越える来場者に対しては、会場となった部屋からつづく隣の部屋の一部に丸テーブルを6つ確保してしのごうというのが店側の作戦だった。そして、遅れてくる人達をそこで受け止めようと考えていた。

 

開会の2時を前に、既に既定の会場は大勢の人で賑わい、あちこちで再会を喜ぶ挨拶が交わされていた。松江からのゲストも遅れることなく到着していた。店のスタッフによる会場拡張作戦が慌しく始まった。

 


そして開会。

Nの開会挨拶は、会場の狭さに対するお詫びで始まった。そして、拡大会場を紹介し、希望する期の移動を民族大移動を促した。


「28期移りまーす!」

 

元気のいい声を真っ先にあげたのは28期幹事のYだった。

 

昨年たった一人で参加し、それでいて年も違う多くの同窓生に臆することなく話し掛けていたYは、今年は5人の同期生を集めていた。

 

 


プログラムは淡々と進んだ。

 

来賓と新入会員の紹介。今年南高を卒業した38期生の出席は7人だった。その中に幹事のTがいた。Tは、2つ上の姉と松江から参加の父とともに出席していた。親子での出席は東京矢の原会始まって以来の出来事だった。

 


次に新しい会長と事務局長の候補が紹介された。二人ともジャケットを着て、少し緊張していた。そう言えば、Nも2年前は暑い中ジャケットを着て来たことを思い出していた。二人の挨拶の後、万雷の拍手で新しい会長と事務局長が承認された。

 


次にマイクを握ったのは、松江の矢の原会本部会長のTだった。Tには、校舎改築及び創立40周年記念事業を成功裏に導くという責任があった。募金の協力依頼に熱がこもった。


そしていよいよ乾杯を迎えた。発声は、この春校長に就任したばかりのHだった。Hはこの日参加した126人の中で、ただ一人の非南高卒業生であった。

 


南高の近況が語られた後、高らかな乾杯の声に合わせて第20回東京矢の原会懇親会は始まった。


乾杯の後、しばしなごやかな懇談が続いた。

あちこちで、懐かしい友との会話が弾んでいた。なかには年の離れた同じ部活の先輩後輩が偶然出会ったり、ホームページの掲示板でだけお互いを知っていた同志がはじめて顔を合わせるということも起きていた。


こうした間もNは落ち着かない時間を過ごしていた。会場問題はなんとかなったものの、新企画「マイCMタイム」にはスピーチを買って出るものがいなかった。いや、一人いた。ただ、あまりにもインパクトが強い話題だった。

 

これだけでは企画の意図が誤解されるかもしれない・・。

 


そのとき、一人の男が立ち上がった。

 

「だいじょうぶです、Nさん。ぼくがやります」

 

都内の大学の教壇に立つG(20期)だった。

それは運命の逆転劇(?)の始まりであった。

 

 


そしてアトラクションの時間がやってきた。

 

最初のスライドショー。Nの同期で大学でデザインを教えているYは、この日のためにボディがチタンの銀色に輝く最新のノートパソコン PowerBook G4 と超小型のプロジェクターを持ち込んでいた。

 


そのときとんでもないことが起こった。

 

準備は完璧のはず・・だった。いや、機材もソフトも完璧だった。ただ、窓のカーテンが薄い日よけしかなく、思いのほか暗くならなかった。

 

よく見えない。でも、やるしかない・・・。


そして「セピア色の写真から」の上映が始まった。

 

南高ができる前の舗装もされていない県道を八重垣神社に向けて走る一畑バス。

 

北高生に見送られて遥か矢の原の地を目指して歩く一期生たち。

 

今はもう見られなくなったという体育祭伝統のファイアーストーム。

 

三時間目が終わるともう駆けつけた食堂の風景。

 

モノクロ写真は確かに見にくかった。それでも会場からは、「ああ、そう、そうだった」とか「へえー」という声が次々に上がった。

 

見覚えのある風景も初めてみる景色も、何もかもが懐かしかった。

 

 

 


 そしてスライドショーの余韻がさめやらぬうち、次の「マイCMタイム」がはじまった。

最初に登場したのはO(2期)だった。

 

Oは、スポーツ中継の実況を中心に活躍したプロのアナウンサーであり、創世期の東京矢の原会では、Oの穏やかで流れるような名調子の司会が欠かせなかった。その名調子が10数年ぶりに蘇っていた。

 

しかし次の一言で、会場には驚きの声が広がった。

 


「今度の参議院選挙に比例区から立候補します」

 

小泉政権の誕生後初の国政選挙として俄然注目を集めることになった第19回参議院通常選挙。その戦いの場に立ち向かう一人の男の姿がそこにあった。

 


そうした一種異様なざわめきが会場を包んでいたとき、次の話し手として黒いTシャツに身を包んだGが前に出た。会場のざわめきを抑えるように、Gは静かに語り始めた。

 

「少子化が進むにつれ、私のいる大学も、生き残りを掛けて大変なときを迎えています」

 


次の瞬間、この日のために用意していた菓子箱をGが取り出した。

 

「そんな中、うちの大学が開発したのが『学○院煎餅』です。なんというわかりやすさ。受験生の方には格好のお土産です。」

 

会場の緊張が解けた。選挙と煎餅。見事なまでの対比であった。

 

 


アトラクションが終わり。再び和やかな会話が続いた。

 

普段、松江はおろか島根の人と接する機会も少ない東京で、同窓生というものはかくも自然と安堵感を感じてしまうものか。後にM(34期)が語った言葉である。

 

そして時計の針は4時をまわり、全員参加による大ジャンケン大会で「香港ガーデン」のお土産を争った。決勝には、2期、7期からは二人、そして20期のあわせて4人が残った。お土産は3つ。惜しくも敗れた一人には、あの「学○院煎餅」が手渡された。

 

 

 


いよいよ最後は恒例の校歌斉唱。本部矢の原会の窓口となる校内理事のS(12期)に促されるように、38期生が前に出てリードをとった。

 

「松江の南空広く・・・」

 

天気に恵まれた七夕の土曜日に、40年近い年の差を越え、松江南高の卒業生の心が一つになった。Nにとっての東京矢の原会がフィナーレを迎えた。

 


そのとき一人の紳士が静かに前に出てマイクを持った。

初代会長のA(1期)だった。

 

AからはNに対するねぎらいの言葉が語られた。

その言葉にNは目頭が少し熱くなるのを覚えた。

 

午後4時30分。記念すべき第20回東京矢の原会は幕を閉じた。

 

 


 

<エピローグ>

 

その日の夜、Nは妻をはじめ同級生8人とともに恵比寿駅近くでの無国籍料理店での2次会で、心地よい時を過ごしていた。

 

4期は、昼間の参加こそ2人であったが、四谷で開かれた2次会には10人以上が参加していた。

 

同じ頃新宿では、上は12期から下は18期までの有志10人が、2次会からしか参加できなかったある幹事も含めて盛り上がっていた。

 

19期は20期といっしょになり、西麻布、六本木、恵比寿を深夜まで転々としていた。28期は幹事の「庭」の広尾で楽しいときを過ごしていた。31期は34期とともに広尾・恵比寿を飲み歩いていた。

 

七夕の夜、第20回東京矢の原会の輪は都内至るところに広がっていた。